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18/06/16 発見!? グラフィック集団!!! / 1919年の死の舞踏

■市場で手にして頁を繰った段階で、“これは並ではないな” と思ったものの、落札した後ようやく詳細改めて見て驚いたのが『お歳暮のしおり 1958』。「東京日本橋 高島屋」のお歳暮カタログでした。
B4・28P、未だ全頁カラーとはいかないものの、1頁おきに縦2/3頁分のスペースに配置されるカラー写真が強い印象を与えます。モードや繊維など関連記事も充実、写真に合わせたイメージカットの効果もあって、単なる商品カタログではなく、むしろ雑誌に近い仕上がりになっています。
「製作 高島屋宣伝部」のクレジットがありますが、縦2/3頁の写真には資生堂石鹸、サントリー、ヤシカ、東レ、味の素、森永製菓など各界一流の企業名が打ち出されており、タイアップ企画だったものと推測されるのですが、驚いたのはこの写真部分。全体の統一感から見て、各社より ありもの素材 の提供を受けるのではなく、当カタログのためにつくり込まれたものと見て間違いなさそうなのですが、それぞれの写真に - 見落とすのが普通だろうと思われる極々小さな文字で - 「グラフィック集団」というクレジットがあるゾ ! ……というのに驚いたというわけです。
「グラフィック集団」は、1953年に写真とデザインの綜合を目指して大辻清司、浜田浜雄などによって結成されたグループで、商業美術の分野で多くの足跡を残しているはず…なのですが、常にぼぉーっとしている小店店主、はっきり「グラフィック集団」と記載された例をあまり目にしたことがなかったもので。はい。
さて。そのクレジットを見ていくと、大辻、浜田の他、杵島隆、北代省三、村越襄、八木治、大塚享、中村誠、樋口忠雄、増田正の名前があり、「東レ テトロン」の広告では田中一光と早崎治が組むなど、グラフィック集団オールスター・キャストといった感があります。グラフィック集団のメンバーついて、最も多くの関係者氏名をまとめているのが下記アドレスにある山口勝弘のアーカイヴですが、当品の記載に間違いがなければ、このサイトでは挙げられていない田子恒男が、この時期グラフィック集団に参加していた可能性も出てくるものと思われます。
http://yamaguchikatsuhiro.musabi.ac.jp/category/3-0-global_art/3-1-jikken-kobo-1951-1957/3-1-3-jikkenkobo-1955-1956/ 

グラフィック集団については資料によって結成が1952年だったり1953年だったり、メンバーも膨らんだりしぼんだりと、まだ情報の整理が十分だとはいえないだけに、戦後デザイン・写真史資料としての意味をもつものではありますが、しかし、老舗名門百貨店がいかに戦後、新しい時代に相応しくあろう、新しい時代をリードしようと模索し挑戦を続けていたかを物語る一つの証拠物件として、非常に面白いものだと思います。

戦後百貨店のお歳暮カタログとは対照的な2点目。あらゆるところに潜んでおり、誰彼の差なく無へと回収してしまう普遍的で非情な死を骸骨の姿で表現する「死の舞踊」。この「死の舞踏」をモチーフに画家 のエドモンド・バイル(エドマン・ビィーユ?) 作品を多色刷りの木版画で作品集に仕立てたタイトルもそのものずばりの『Une Danse macabre』1919年に限定500部が発行された内、当品はNo.73で、ポートフォリオにタイトル、目次、テキスト等を収めた4Pと木版19葉が収められているもの。完本は20葉ですが、今回小店入荷分は、残念ながら1葉欠けということになります。
エドモンド・ビルは1878年スイス生まれ。パリのアカデミー・ジュリアンなどで学んだ後、スイスの芸術家・建築家の組織「SPSAS」のメンバーとなり、第一次大戦当時は反戦のためのメディアに深く関わっていたようです。
1919年に出版されたこの作品集は、彼の代表作のひとつとされており、こちらの画像ではとりませんでしたが、とくに力強く描かれた反戦的な表現は、日本の柳瀬正夢にも似た印象を残しますが、それを通り越した21世紀現在、何故だかクロムハーあたりと並べたくなる作風なのでした。
セットで売るべきか(できればそうしたい)、プレートバラ売りか、只今思案中。
 

 

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